「新訳」の意味があった~『三惑星連合』
「レンズマン」シリーズの最終巻である。実は、この後にも「渦動破壊者」というインサイドストーリーがあるが、これは後年シリーズに編入されたものであり、本来のシリーズとはいえない。(ところで、この「渦動破壊者」は、そもそも小西宏ではなく小隅黎が訳している。にもかかわらず、新訳をすることになっているのが不思議だ)
実は、最近になって旧訳の「三惑星連合軍」も読んでみていた。訳の問題というより、流れているセンスが異様に古めかしく、確かに違和感はぬぐえない。
考えてみると、このエピソードは、日本で言うなら昭和9年に元々は書かれていた、というのだから古く感じるのもあたりまえ。それより、昭和初期にアメリカではこんな本格的スペースオペラが書かれていた、ということのほうにこそ驚愕する。
それはともかく、時期的には最終形である「ファーストレンズマン」と本来は一番古い「三惑星連合」とでは、スミスの文章そのものもずいぶんと変わっていたに違いなく、今回の新訳で訳者が苦労したというのも頷ける。結果は、というと、これはやってよかったと言えるのではないだろうか。「翻訳が『超訳』ではいけない」という訳者の主張があとがきに書かれていたが、今回の訳はなんとかぎりぎりの線で踏みとどまり、現代に出し直す意義をもたらしたと言っていいように思う。旧訳版と比べても、用語が近代的に統一されたこともあいまって、古さを感じさせない出来上がりと言ってよい。
ところで、解説でも書かれていることだが、同じ本も読む時期によってずいぶん異なった印象があるのは確かである。ここで問題になっているのは前半の「1942年」と題されたエピソード。これは、第二次大戦中にキニスン家の祖先が、軍需工場で不正と戦う、という話。確かに、アリシア人も出てこなければそもそもSFですらない。僕の場合は、解説者が言うほどには子供の時に読んだ時に違和感は感じなかった。ただ、意味はよくわかっていなかった面はあると思う。そして、今大人になって読んでみると、確かに、会社という組織での軋轢というテーマが、ずっとよく理解できた。
最近、似た経験をもうひとつした。それは「帰ってきたウルトラマン」である。こどものころに、MATチームの弱さばかりが気になってしまい、全然おもしろくなかった。ところが、最近見返してみると、実はMATとは、歴代ウルトラシリーズの中で群を抜いた「官僚組織の中の防衛隊」であることに気づかされる。何かというと、上部構造の司令官が登場し「この作戦に失敗したらMATは解散だ」とか言い渡される。加藤隊長は、隊長といいながら実は中間管理職なのである。その悩みとか苦しみとかが、こどもの時には全然ぴんと来ていなかったが、今観るとそれなりに感じるところがあり、何かというと内輪もめを繰り返すMATの隊員達にも科特隊やウルトラ警備隊にはない人間くささを感じる。だからといって、作品の評価がすごく高まるというわけではないが、何か得るものはあった。
レンズマンに話を戻すと、解説者によると、エッドア人の組織こそ、スミスが心から憎んだ官僚組織の非効率そのものである、とのこと。部下は自分のミスを隠匿し、トップは責任をとろうとしない。それがミスの限りない再生産を生む。こういう組織は旧日本軍だけかと思っていたか、実は同じ問題はいかなる組織にも多かれ少なかれ含まれているのかもしれない。
大人になって読むレンズマンからは、子供の時にはわからなかった、「大人の世界」を感じさせてくれた。それが結論かもしれない。
(おそらく、新訳版の『渦動破壊者』は読みませんので、レンズマンについての評はこれが最後です。)
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