映画「キューティーハニー」~「売り方」「売られ方」の問題
現在公開中の映画「キューティーハニー」の興行成績がいま一つ伸びないという話をきいた。
これは、僕は単純に宣伝というか、この映画の「位置づけ」に問題があったからのように思えてならない。
否定的な批評の中で非常に示唆に富んでいるのが、怪獣イラストの第一人者・開田裕治氏がご自身のホームページ上で公開しているものである。
長くなるが引用しよう。
「(前略)人質を間に置いての駆け引きがこちらの思いも寄らない展開を生むとか、人質の枷が外れた後に凄いアクションシーンがあるのならまだしも、結局ハニーは普通の人間である仲間に助けられ、シスタージルはあっけなく倒されてしまう。(ディテールは違うかもしれないが私にはこういう印象だった)ジルタワーの中で樹木のように固定されたままのシスタージルが最後にどんな本性を現してハニーと対決するのか、こっちの予想を遙かに上回るようなクライマックスを期待していた私が悪いのか? これでは愛の戦士のキューティーハニーが悪の化身であるシスタージルを色々あった挙げ句に打ち倒す映画ではなく、トラウマや抑圧の全くない如月ハニーがトラウマと抑圧にまみれた秋夏子と色々あった挙げ句に理解し合うという映画ではないのか。なんだか軸足がずれてやしないか?」
こういう見方からすると、まさに的を射た正しい評価ということになる。しかし僕は、同じポイントをむしろ逆に捉えた。「抑圧にまみれた秋夏子と色々あった挙げ句に理解し合う」ということこそが、この「庵野ハニー」の本質であり最大の魅力である、と思えたのだ。
「ハニー」という企画をもらったときに、予算規模も含めて庵野監督が出した結論が、「アクションや映像表現は徹底的にスタイリッシュに『決まりごと』としてやる。『型にはまっている』楽しさを追求する」、そして、物語の本質は「自分の居場所がないと思っていた孤独な少女が分かり合える仲間と出会うまで」という話に絞る、というものだったのではないか。それが原作のある部分へのリスペクトになるし、現代性も獲得しうる、という判断だったはずで、決して間違いではない。
作品的には、SFアクションというよりは、前作「式日」のテーマを、より一般性がある娯楽作の枠組みで実現させようとした作品である。開田氏が期待するような要素は、そもそもできなかったし、やる気もなかったのではないかと、想像される。
ただ、売り方としては、この二人のドラマ部分には完全に目をつぶり、「ハニメーション」に代表されるような、アクションや映像表現の「斬新さ」を前面に出したものになっていた。配給側としては「マトリックス」を念頭に置いたのであろうが、いくらなんでも無理がある。2重に問題がある。
まず、そもそも本作における数々のアクションシーンは、ドラマから取り出してそれだけを見せられたら非常にチープに見える。見た目だけは「高そう」に見える「キャシャーン」とは正反対である。映像を見せれば見せるほど、逆宣伝になっていったと断言できる。本作の映像は、ある種の「お約束ごと」の上に立って成立しているものであり、それを分かる人が見ると乗って楽しめるが、それも本編の中に感情移入していった場合だ。部分を切り出して見せられたら、ほとんどが引くだろう(僕自身がそうだった)。
さらには、開田氏に代表されるように、「特撮SF巨編」としての期待をもって見る観客を作ってしまった。そういう目線で見ていったら、まさに「軸足がずれている」といわざるを得ないだろう。開田氏はそれでもまだ愛があるからあの程度の言い方で済んでいるが、普通なら「金返せ」と叫ぶところだ。
かといってどう宣伝していったらよかったのか、僕の中にも確実な結論はないが、ドラマとしてきっちり売っていくことが難しいとするならば、むしろ「ガキ向け」の特撮ヒーローものとして出していったほうが勝てたのではないか、と思う。「子供向けにしては凝っている」「子供だけに見せるには惜しいほど泣ける」とか、そういう評価を得ることができれば、今よりは成功したのではないか、と思える。
映画というのは、決してさらで観るわけではない。事前の情報にかなり影響を受けてから観ることになる。ビデオやDVDで再評価されることはあるにしても、結局は劇場公開の成績というのは、下手をすればその監督の寿命まで左右してしまうことがあることを考えると、もう少し考えて告知してほしかった、そんなことを思った。
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