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2004年7月13日 (火)

『終戦のローレライ』と『亡国のイージス』~なぜ、これが「SFではない」と思ったのか

 これは、彼が「パラサイト・イブ」を書いたときに、SF界やSFファンから、総攻撃を受けたことから、その理由を「実証的」(これがすごい。独自で編集者や読者にアンケート調査までしている)に分析して語ったもの。この講演自体非常に興味深いものだが、中でひとつ特に勉強になったものがある。それはSFの魅力として喧伝される「センス・オブ・ワンダー(SOWと表記しているが、こういう略し方も初めて見た)」についての定義である。
長くなるが引用しよう。
「森下(一仁)さんの説によりますと、ファンタジーというのは、この『犬』のフレームにぶら下がっているスロットの一個が、なにか全然違うものに置き換えられた状態なんです。透明な犬だとか、全長30メートルの犬とか、そういう訳のわからないスロットが一個入る。それがファンタジーだというわけです。
 それに対してSFは、どこかのスロットが一個変わったとき、変化がそこだけで終わるのではなくて、変化が他のスロットにも影響を及ぼしてゆく。どんどんフレームの中で変換が起こっていって、最終的にはフレーム全体が再構築されてしまう。これがSOWで、SFの本質だということなんです。」

 ようやく本題に戻るが、最近、福井晴敏の代表作である「終戦のローレライ」と「亡国のイージス」を続けて読んだ。これが、ともに大きな「IF」を設定しているにもかかわらず、どうにも「SF的なセンス・オブ・ワンダー」を感じなかったのである。原因がどうもはっきりしなかったのだが、この瀬名秀明の(というより森下一仁のか)説を読んで、ようやく合点がいった。

 福井の2作は、それぞれ「終戦間際にドイツが開発した超兵器が日本へ届けられていたとしたら」「テロリストがイージス艦を乗っ取って東京湾に篭城したら」という大きな嘘をつく。そこまでにいたる段取りのリアリティはものすごく、非常に読ませる。ところが、その後物語がクライマックスに向かって行く後半にはなるとなぜか違和感があるのだ。つまり、とんでもない大事件がおきたはずなのに、前者では「歴史には何の変化もなく、生き残った主人公たちは市井の人として子供を生み育て死んでいく。この物語の後に来るのは今の日本の姿そのもの」なのであり、後者においても「イージス艦の事件は、世間には一切知られることはなく、日本には何の変化もない」のである。この物語の閉じ方にがっくりくるのである。
 これは、まさに「SF」ではないがためだ。文字通り「一つのスロットの変化」が、「フレーム全体の再構築」に繋がっていないのである。
 もっと具体的に言うなら、たとえば「ローレライ」の物語の果てには、思いもがけない新しい世界観の提示やこの現実が実は現実ではないのでは、という疑問とかが生まれてきてほしいのである。たとえば、眉村卓の「燃える傾斜」のように。人ではなく「人類」を、世間ではなく「宇宙」を描くのがSFであるとするならば、福井の興味はSFに向いていないのだろう。飛躍するようだが、現代の若手作家に共通する現実肯定的な姿勢が気になった。
 だからといって、この2作が駄作だというつもりはないが、それぞれ前半の緊迫感がすばらしいだけに、後半の竜頭蛇尾的な予定調和がもったいなく思えるのだ。

 ところで、前述の講演の中で、瀬名秀明は「これはSFではない」という言い方を5年間封印しよう、という提案をしている。どうしても言う必要があるときは「SFとして読むとおもしろくない」というふうに言うべきであると。前者のような言い方は、非SF人がきくと非常にきつく感じられ、コミュニケーションを否定されたように受け取る。SF人のこういう言い方がSFの広がりを拒絶しているとのことである。
 確かに、もっともである。僕は「これはSFではない」をやたら連発するタイプだったので、今後は気をつけようと思う。

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