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2005年9月19日 (月)

富野以外の「ガンダム」の可能性

 本当に遅ればせながら『ガンダムSEED』を最後まで観た。続編の「デスティニー」が最終回を迎えようという時期に困ったものである。
 2年前の本放送時にも最初のほうをチラチラ観ていて、なかなか質が高い、ということと、「新しいスタッフで作ることで、ファーストガンダムへの過剰な意識がないのがプラスに働いている」と思っていた。後者については、つまり「既成人類と新人類の戦い」「敵に覆面の士官がいる」「前半のクライマックスは大気圏突入」とか、大設定、小設定、小物にいたるまで、ファーストガンダムの「いいとこどり」をてらいなくやっているなあ、と思ったのである。なまじ富野さん自身が続編を手がけると、自分の旧作に「似せないように」という意識で、どうしても変格っぽい作りになってしまっていたのと好対照だと思ったのである。新しい、しかも若いスタッフが「ガンダム」を手がけることで、いいところはいいところとして取り入れる作り方が可能になった。さらに言うと、「ウルトラマン」や「ライダー」と同じように、「ガンダム」がひとつジャンルとして延々と受けつがけれいくものになったのだなあ、と思った次第。

 ただ、今回見直してみて、改めて思ったのは、要するに自分がこういうものが好きなんだ、ということだった。敵がいて味方がいる「戦争」という大状況、そして巻き込まれた少年少女、恋のさやあてから、敵味方を超えた友情、仲間とのつらい別れ、そして人類自身の未来をかけた戦い。子供のころからジュブナイルSFを読み続けてきた自分にとって、「ガンダム的ワールド」が実はあらゆる理屈を超えて一番しっくりとくる世界だということを再認識した。

 最後まで観てのひとつの感想は、「敵・味方」という二元論を主人公たちが自分たちの力で変えていこう、と志すところに「新世代」の作品という気が非常にした。富野さんの「ガンダム」や「イデオン」が、結局は「大状況は少年のがんばり程度では何も変わらない」という諦念で貫かれているのと好対照である。
 ただ、もちろんそんな大それたテーマに挑んだため、終盤の物語構成が破綻しまくっているのは仕方ないのかもしれない。中盤までの「敵・味方」がはっきりしている中での戦いと苦悩、が延々描かれた物語のほうがリアルであり、より楽しめた。
 結果として、あれだけ思わせぶりに出していた「フレイ」(とことんイヤな女の子キャラとして珍しいパターンだったのに)というキャラが、結局扱いきれずに殺してしまったりする残念な終わり方になっている。

 そういったことも含めて、積み残したテーマは「デスティニー」で描かれているのであろう、と期待して、機会があればそちらも見てみたい。

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