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2008年12月28日 (日)

再録・配収NO.1映画「タイタニック」を徹底批判する!!

世の中には「描いていいこと」と「悪いこと」がある

1998年6月

映画「タイタニック」を観た。気持ち悪くなった。僕にとっては史上もっとも不愉快な映画だった。以下なぜそう感じたかの理由を書いてみたい。

1 タブーを描くことが本当に「正しい」のか

 この映画の特徴は、第一にタイタニックが沈没していく過程をCGと特撮を駆使してリアルに描いたことである。確かに立派なものだ。人類はついに「空想ドキュメンタリー」とも言うべき力を手に入れたといってもいい。

 しかし、「何でも描けるようになった」ことと「何でも描いていい」とは全然違う。新しい技術を入手したからこそ、それを使う側には自ずとその使用に関しての「倫理」「哲学」が必要になると思う。

「タイタニック」で描かれているのは、人間の命に関する「究極の選択」問題である。「カルネアデスの筏」(記憶曖昧)という思考実験がある(らしい)。海に浮かんでいる筏に一人がしがみついている。筏は小さくかろうじて一人しか支えられない。そこにもう一人の遭難者が泳いで来たらどうするのか、と いうものだ。自分の命を守るためなら、他人を犠牲にしてもよいのか……。

 結論から言おう。これは「タブー」なのである。触れてはいけないことなのだ。理由は簡単だ。解決策がないからだ。この思考実験をいくら繰り返しても、何の建設的思考も生まれない。単に非常に不愉快な気分になるだけだ。ましてや、タイタニックの乗客達はこの問題に正面から直面させられたのだ。ここには何の教訓もなければ、正解もない。生き残った人々はただその体験を忘れたいと念じるだけだったろう。現場でどんな悲劇が起こったのか、それは「言わぬが華」である。

 仮に「タイタニック」を観た観客が、「自分だったらどうしただろう」と考えたとする。見事に回答はないのである。ああいう場に居合わせないで一生を終わることを心から願うだけだ。

 しかも、もっと大きな問題は、この物語が「事実」である点だ。あまたの冒険活劇やパニック映画では、常に「逃げまどう人々」を描いてきたが、これらはあくまでフィクションである。どんな悲劇を描いたところで、絵空事であるという保証があるし、「死に直面した人々の勇気」とかをヒロイックに喧伝しても、大きな害はない。だが、事実としての沈没事件をリアルに再現するということは、事件の関係者には哀しみを、無関係な人々には不愉快な気分を与えるだけで何の意味もない。

2 リアルな史実描写が「単なるラブストーリー」に奉仕するあほらしさ

「タイタニック」の事件に関して、多くの人は乗客がどうやって死んでいったか、ということに関して曖昧なイメージしかもっていなかったはずだ。映画「タイタニック」では、海に振り落とされた人々が一人ずつ凍え死んでいく光景を執拗に見せる。正直に言って、インパクトのある映像である。しかし、これをもって「初めて歴史の真実を描いた」と言うバカもいるが、まったく見当はずれだ。これは単なる「残虐趣味」である。

 たとえば、「天空の城ラピュタ」では、高空から海面に振り落とされている悪漢達、というシークエンスがあるが、まったくのフィクション・ファンタジーであるにも関わらず、「海面にたたきつけられる人間」という残虐映像を描写することは避けている。これは「甘い」のではなく「自制心」のたまものであろう。なんでも刺激的であればいいというわけではない。

 別の例を挙げよう。山奥に不時着した飛行機の乗客達が、死体の肉を食べて生き延びた、という事件があったとする。これに対して部外者が何かコメントをする事が可能だろうか。ましてや、劇場大作にして全世界に興味本位に広めることが許されるだろうか。あなたはそんなものを観たいですか? 観たい人もいるかもしれない。それはある意味で人間の暗黒面である。だが、それはやってはいけないことなのだ。

「タイタニック」がやったことは同じである。

 もしこういう興味本位の映像を生み出すことに何らかの正当性が与えられるとすれば、それは、その映像に「描くべきテーマ」がある場合だけだ。というか、なければ描いてはいけないのだ。

 もちろん、「タイタニック」事件を記録すること、表現することの唯一の意味は「あの悲劇を繰り返さないために」というテーマに貢献できる場合である。

「こういう絶望的なことを2度と起こさないために、事故の原因や責任をはっきりさせる。人類がいかにおろかか、科学や技術は過信してはいけないか」月並みだが、こういうテーマを正面から訴えるのではなくては、生者・死者への冒涜にもなりかねない映像を実現する意味はない。

 それをたかが陳腐なラブストーリーを「彩る」ために奉仕させるとは、何をかいわんやである。

3 監督はやってはいけないことで、ヒットを勝ち取った

 沈没によって人々が「虫けら」のごとく死んでいく。これは映像として大変なインパクトがある。しかも「事実である」ということで、衝撃は倍増する。映像作家にとって、こういう仕掛けを使えれば、それはラクだ。苦労してドラマを考える必要が一切なく、少なくとも「ショック」という意味では最高の仕掛けが得られるのだから。

 いままで「タブーを犯した」だとか「テーマがない」とかさんざん述べたが、監督は確信犯なのだと思う。「沈没をリアルに描くこと」がもたらす映像的インパクトに頼ることを意識的に選択したのである。

 これが、作家としてのキャメロンを絶対に許せない点である。ラブストーリーが描きたいのなら、他にいくらでも舞台があるではないか。物語の構造としては、「マイ・フェア・レディ」のようなものだが、それがフィクションとして描ききれないとすれば、作家としての無能を意味しているとしか思えない。

「禁じ手」を使っての最高配収に価値があるとは思えない。

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