2005年8月 7日 (日)

伝説から神話へ『スターウォーズ』

『エピソード3』を観たのであるが、映画としてどうこうということ以前に何か「歴史」に立ち会ったような不思議な感動を受けた。
後でゆっくり考えてみたら、その理由が分かった。「スターウォーズ」は、低迷していたハリウッド映画の救世主であったわけだが、シリーズを重ねる毎に、アメリカ人にとってはもっと大きな存在になっていったのではないかと思う。そう、ある種の「伝説」になった、と。
よく言われることだが、日本人やヨーロッパ人とアメリカ人の決定的な違いは、「歴史」の有無である。また移民によって生まれた国であるから、極端な他民族国家(最近は『人種のミックスサラダ』と言うらしい)であることも大きい。結果として、民族が必ず持っている「伝承」やら「伝説」やらをまったく持っていない。一方で、「王家」や「皇室」といった統合の象徴がない反動で、スポーツなど(場合によっては戦争まで)で「アメリカ人」としての意識を人為的に高めようとしてきたようにも見える。
ハリウッド映画というアメリカにとって、いわば「魂」とも言うべきジャンルから生まれた「スターウォーズ」は、単に人気のある映画ということにとどまらず、アメリカ人のアイデンティティにもかかわる大きな存在になっていったのではないか、と思うのである。
そしてこの「エピソード3」である。ラストでルークとレイアが生まれるシーンで、まさに伝説が完結した。人為的に生み出された「物語」であるはずなのに、アメリカという国の「建国神話」を見せられたかのような感慨があったのである。
アメリカ人がついに自前の「伝説」「神話」を手にした瞬間に立ち会った、大げさに言うとそんな感慨を得たのである。

ところで、シリーズはこれで終了だそうだが、僕はぜひ「エピソード7」を作ってほしいと思う。今回の「エピソード3」には、「9-11後のアメリカ」の色を非常に強く感じた。「強いアメリカ」を無条件に賛美することはできず、かと言って新しい価値観を打ち出すこともできない。

改めて、「スターウォーズ」を通して観ると、それは「政治体制の選択」の物語であったことがよく分かる。「ジェダイ」という「賢人支配」で平和が保たれていた国が、まさに「民主主義」の圧力(俺たちは他人に支配なんかされたくない)によって崩される。ところがその「民主革命」を主導した指導者が、権力を握ったとたんに帝政を敷き、民衆を圧迫する。それに対して立ち上がったのが、なんと賢人の「血」を受け継いだ子供たちであり、しかもそのうち一人はなんと「お姫様」なのである。
「賢人政治」→「民主主義」→「帝政」とすべての政治体制を短期間に経たこの世界が、次にどんな選択をしたのか。ルークやレイアは父母の時代よりも一段と難しい選択を迫られていくはずである。
「9-11後」の世界の混迷を踏まえて、ルーカスは「その後」を描くべきだと思うのである。少なくともそれは、単純な「ジェダイの復活」では済まされないはずだ。もちろん誰も回答など持ち得ない以上、エピソード7は、ボロボロで破綻した物語になってしまう可能性も高い。それでもいいと思う。このままきれいに「神話」として終わらせてしまってはいけない。もう一度現実に向き合うべきではないか、と思うのである。

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2004年12月 6日 (月)

なんとSFだった『いま、会いにゆきます』

申し訳ないが、本はまだ読んでいない。映画の感想を書くので、一応原作の絵を入れさせてもらった。

で、映画なのだが、「セカチュウ」の2匹目のドジョウ企画ということで、あまり期待していなかった。よくできているだろう、とは予想していたものの、まあ泣くとか感動するとかそういうことはなかろうと。

映画の印象は終盤近くまで予想通りの展開を示す。よくも悪くも「今風」の作りであり、映像のきれいさは認めるものの、まあ凡庸な「感動もの」という感じ。主人公が現世に戻ってきた理由が、どうにも弱い、などと思っていた。また、人の甦りを「泣けるホラー」などといっていい加減に扱うのはよくない傾向だとも感じたり。

仰天したのが、「復活」した竹内結子が、雨の季節の終了とともに消えてしまった後である。
SFファンならば、ぜひ見ることを勧める。なんと、この映画は時間テーマのSFだったのだ。宣伝でも映画評でも、まったく触れられていないのが何とも不可思議(戦略か)だが、前半で張った数々の伏線が、ものの見事に「大きなウソ」の元に収斂していくさまは、よいSFの醍醐味を堪能させてくれるものだった。

途中までの、だれた展開もすべてこの最後の10分間のためにあると思えてくるし、前述の「復活」の理由の弱さも、ちゃんと説明される。

市川拓司がSFファンだということは知っていたが、こういうことになっていようとは、いい意味で裏切られた。彼の次作の「そのときは彼によろしく」は既読だが、こちらは後半のSFというよりファンタジー的な展開が、どうにもとってつけたようで気になった。現実的な枠組みの中で終わらせたほうがずっとよかったのに、と思ったものである。「いま、会いに……」のほうは、原作がどうなっているかは至急確認しようと思うのであるが、映画を見る限り、SF性がドラマの根幹にきっちりと据えられており、はるかにできがいい。

テーマ的には、そう目新しいものではない。僕が連想したのは、「マイナスゼロ」(広瀬正)と「ハイペリオン」「エンディミオンの覚醒」(ダン・シモンズ)。おそらく作者は絶対に読んでいるし、意図的に「引用」していると思う。機会があったらぜひきいてみたい。特に後者については、目の前で死んでしまったヒロインの若い時期と未来において再会する、という構成が非常によく似ている。
ただ、こういう原点探しはあまり意味がない。このSF不遇の時代に、まったくSFと銘打たないことで、非常にピュアなSF映画が生まれた、ということを素直に受け入れたい。

また、日本においてSF映画を作るのなら、宇宙ものやドンパチのものより、広瀬正のようにドラマを中心に据えた原作のほうが可能性があるのでは、と夢想していたのであるが、こういう形で実現してみると、もう敢えて「マイナスゼロ」そのものを映画化する必要はない、と思えてくる。形を変えながら、思いは引き継がれていく。そういうものかもしれない。

まあ、思いがけずSFであった、というショックを差し引いても非常によくできた映画である。キャスティングもいいし、演出も非常にうまい。また、高校時代の表現がこれまたよく出来ていて、1本で3本分くらい楽しめる映画である(感動ホームドラマ、青春もの、時間SF)。文句なく、僕の中では今年のベスト1としたい。

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2004年6月 4日 (金)

映画「キューティーハニー」~「売り方」「売られ方」の問題

現在公開中の映画「キューティーハニー」の興行成績がいま一つ伸びないという話をきいた。
 これは、僕は単純に宣伝というか、この映画の「位置づけ」に問題があったからのように思えてならない。

 否定的な批評の中で非常に示唆に富んでいるのが、怪獣イラストの第一人者・開田裕治氏がご自身のホームページ上で公開しているものである。
 長くなるが引用しよう。
「(前略)人質を間に置いての駆け引きがこちらの思いも寄らない展開を生むとか、人質の枷が外れた後に凄いアクションシーンがあるのならまだしも、結局ハニーは普通の人間である仲間に助けられ、シスタージルはあっけなく倒されてしまう。(ディテールは違うかもしれないが私にはこういう印象だった)ジルタワーの中で樹木のように固定されたままのシスタージルが最後にどんな本性を現してハニーと対決するのか、こっちの予想を遙かに上回るようなクライマックスを期待していた私が悪いのか? これでは愛の戦士のキューティーハニーが悪の化身であるシスタージルを色々あった挙げ句に打ち倒す映画ではなく、トラウマや抑圧の全くない如月ハニーがトラウマと抑圧にまみれた秋夏子と色々あった挙げ句に理解し合うという映画ではないのか。なんだか軸足がずれてやしないか?」

 こういう見方からすると、まさに的を射た正しい評価ということになる。しかし僕は、同じポイントをむしろ逆に捉えた。「抑圧にまみれた秋夏子と色々あった挙げ句に理解し合う」ということこそが、この「庵野ハニー」の本質であり最大の魅力である、と思えたのだ。

「ハニー」という企画をもらったときに、予算規模も含めて庵野監督が出した結論が、「アクションや映像表現は徹底的にスタイリッシュに『決まりごと』としてやる。『型にはまっている』楽しさを追求する」、そして、物語の本質は「自分の居場所がないと思っていた孤独な少女が分かり合える仲間と出会うまで」という話に絞る、というものだったのではないか。それが原作のある部分へのリスペクトになるし、現代性も獲得しうる、という判断だったはずで、決して間違いではない。
 作品的には、SFアクションというよりは、前作「式日」のテーマを、より一般性がある娯楽作の枠組みで実現させようとした作品である。開田氏が期待するような要素は、そもそもできなかったし、やる気もなかったのではないかと、想像される。
 
 ただ、売り方としては、この二人のドラマ部分には完全に目をつぶり、「ハニメーション」に代表されるような、アクションや映像表現の「斬新さ」を前面に出したものになっていた。配給側としては「マトリックス」を念頭に置いたのであろうが、いくらなんでも無理がある。2重に問題がある。
 まず、そもそも本作における数々のアクションシーンは、ドラマから取り出してそれだけを見せられたら非常にチープに見える。見た目だけは「高そう」に見える「キャシャーン」とは正反対である。映像を見せれば見せるほど、逆宣伝になっていったと断言できる。本作の映像は、ある種の「お約束ごと」の上に立って成立しているものであり、それを分かる人が見ると乗って楽しめるが、それも本編の中に感情移入していった場合だ。部分を切り出して見せられたら、ほとんどが引くだろう(僕自身がそうだった)。
 さらには、開田氏に代表されるように、「特撮SF巨編」としての期待をもって見る観客を作ってしまった。そういう目線で見ていったら、まさに「軸足がずれている」といわざるを得ないだろう。開田氏はそれでもまだ愛があるからあの程度の言い方で済んでいるが、普通なら「金返せ」と叫ぶところだ。

 かといってどう宣伝していったらよかったのか、僕の中にも確実な結論はないが、ドラマとしてきっちり売っていくことが難しいとするならば、むしろ「ガキ向け」の特撮ヒーローものとして出していったほうが勝てたのではないか、と思う。「子供向けにしては凝っている」「子供だけに見せるには惜しいほど泣ける」とか、そういう評価を得ることができれば、今よりは成功したのではないか、と思える。

 映画というのは、決してさらで観るわけではない。事前の情報にかなり影響を受けてから観ることになる。ビデオやDVDで再評価されることはあるにしても、結局は劇場公開の成績というのは、下手をすればその監督の寿命まで左右してしまうことがあることを考えると、もう少し考えて告知してほしかった、そんなことを思った。

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