2005年5月 7日 (土)

『ゴルゴ13はいつ終わるのか?』 オタク世代が抱えた矛盾

 竹熊健太郎の漫画評論?集で、大長編マンガ(「ガラスの仮面」「美味しんぼ」「ゴルゴ13」の最終回を予測する、という3本の文章が目玉である。しかし、この文章自体は、再録であり、僕はすでに別の本で読んでいた(それも再録だったから、3度目の収録ということになる。本当にすごいのは、初出が93年というから、10年以上たっても、この3本のマンガが終わっていないことだ)。
 感心したというか、共感したのは、それではなく、「自分のハナシ」と題した、著者の中学生から高校生にいたる(今で言う)「オタクの目覚め」を赤裸々に綴った部分である。少女マンガ、アニメ、同人誌、そして「ヤマトブーム」。著者は実は僕と同年生まれ(1960年)であり、見てきたものは微妙に異なるものの、時代から受け取ってきたものが驚くほど似ていて本当にびっくりした。
 自分と同世代の人が書いたアニメやSFに関する文章には、共感することが多いのであるが、この竹熊氏の場合は、そのシンクロ度合いが尋常ではない。
 彼は高校では美術部(といいながら実態はマンガ部)で、僕は文芸部だったが、サブカルチャーのモロモロを「自分だけが分かっている」と思い込み、独りよがりの同人誌を作って配りまくっていた、というところが恐ろしく似ている。

 閑話休題。この文章の中で、一番注目すべきなのは次の指摘である(『アニメブームの光と影』と題した章)。
「‥‥つまり自分たちの世代の感性が、そのまま社会に認められ、ひいてはその主流になるのではないかと錯覚したのである」
 そう、僕もまさしくそう信じていた。しかし、竹熊氏は、それがまさに「錯覚」だったと断定する。なぜ「錯覚」に終わってしまったかについて、彼は2つの理由を挙げている。一つはどんなにアニメがよいものだとしても、「ファン同士のおしゃべり」を熱っぽく繰り返しても実は何も生まない。外へ向けてアニメの本質を発信していく「評論」、それは上の世代との橋渡しでもある、が決定的に欠けていた。一見は華々しく見えても、「大人」のマスコミがやっていたのは、文字通り「利用している」だけだったのである、と。
 そして、彼がより本質的な問題としてあげているのが、ブームの最中に作られたさまざまな「アニメ」が、例外なくすべて駄作だった、ということだ。これにはやや異論もあるが、ファンの側の盛り上がりに答えられるような作品を作り手側が提供してくれなかったことにより、アニメファンの思いが空回りしていった、という分析には説得力がある。
 どの時期をとるかにもよるが、(竹熊氏は新「ルパン」をその典型例としてあげている)僕は、少なくとも、「ガンダム」「イデオン」までは、作り手と受け手の幸せな連携があったと思う。その後80年代に入ってからは、確かに竹熊氏の言うとおりかもしれない。

 後者に関しては、「だったら作ってしまえ」と開き直ったのがガイナックスの一連の活動であるという見方もできる。なおその到達点とも言うべき「エヴァンゲリオン」についても、この本の最終章「私とエヴァンゲリオン」で、インディーズのロックバンドになぞらえて、簡潔かつ的確に評している。

 とにかく、自分の「サブカル」特にアニメに対する思い、そしてこの20年間のなんとなく不完全燃焼的な気分の根底にあるものを、この竹熊氏の文章は明快にしてくれた。その上で、自分はいったい何を残りの人生でできるのか、そんな深刻な疑問すら感じてしまった。

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2004年8月25日 (水)

『出口のない海』~設定を生かしてない感もあるが抑えたラストに感心

 横山秀夫の戦争もの、というより「特攻隊もの」である。
 特攻をヒロイズムでも極端な悲劇としても描かず、当時の大学生の正直な心境とともに淡々と描き出そう、という姿勢がよい。特にユニークだと思ったのは、結局主人公たちは、回天による特攻のための訓練に明け暮れるだけで、最後の瞬間まで「リアル」な戦争を目の当たりにしていない、というあたり。戦争の悲惨さをこれでもかと描くのではなく、より純粋に日本や戦争、そして生死の問題を徹底的につきつめていくことを強いられた学生の目線が描かれているのが新鮮であった。
 その結果として、「もう死を免れることはできない。だったら特攻兵器・回天があったという事実だけは後世に残したい」という思いに至った主人公は、皮肉にも人知れない訓練中の事故で死んでいく、それは「敵であっても殺したくはない」という彼の気持ちに沿った最期だったのかもしれない、という抑えたラストは大変感心した。
 学徒動員というのが、実はかなり終戦間際の出来事だった、とか、特攻兵器・回天の詳細とか、結構知らないことが多く、その意味でも興味深い一冊だった。

 ただ、「甲子園の優勝投手は、なぜ、自ら『人間兵器』となることを選んだのか。」といううたい文句には全然応えていないのには不満あり。別に積極的に志願したわけではなく、そういう「雰囲気だった」ということ以外に説明は出てこない。まあそのこと自体はいいといえばいいのだが、せっかく戦時下の野球という魅力的な情景を取り入れたのだから、もう少しはふたつの要素を絡ませてほしかったとは思う。
 「魔球の開発」という荒唐無稽になりそうな設定も、なかなかいい感じに描かれているのだが、だったら、魔球にこだわった、という主人公の生き方が特攻によって切断されたとき、その思いにはどういう決着が付けられ、どう後に引き継がれていったのか、まで描いてほしかった。
 一番疑問だったのが、冒頭から非常に思わせぶりに登場する北という「トリックスター」(そう表現されている)が結局あまり活躍しないところ。「陸上でオリンピックを目指してしたが戦争で中止になってしまい目的を失った」北と「甲子園優勝投手でありながら肩を壊して魔球で再起を図る」主人公・並木、という構造をもっと生かしてほしい。てっきり、特攻に行く前に北を急造捕手として「魔球」をついに投げる、という話になるのかと思った。むしろ、物語の終盤近くに唐突に出てくる沖田という若者が主人公の思いを引き継ぐ役回りにすりかわってしまう。

 あと、これは調べればわかることだが、この話が果たして「実話」を元にしているのかどうか、というのも気になる。それによって「感動」がだいぶ変わると思うのだが、どうなのだろう。

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2004年7月13日 (火)

『終戦のローレライ』と『亡国のイージス』~なぜ、これが「SFではない」と思ったのか

 これは、彼が「パラサイト・イブ」を書いたときに、SF界やSFファンから、総攻撃を受けたことから、その理由を「実証的」(これがすごい。独自で編集者や読者にアンケート調査までしている)に分析して語ったもの。この講演自体非常に興味深いものだが、中でひとつ特に勉強になったものがある。それはSFの魅力として喧伝される「センス・オブ・ワンダー(SOWと表記しているが、こういう略し方も初めて見た)」についての定義である。
長くなるが引用しよう。
「森下(一仁)さんの説によりますと、ファンタジーというのは、この『犬』のフレームにぶら下がっているスロットの一個が、なにか全然違うものに置き換えられた状態なんです。透明な犬だとか、全長30メートルの犬とか、そういう訳のわからないスロットが一個入る。それがファンタジーだというわけです。
 それに対してSFは、どこかのスロットが一個変わったとき、変化がそこだけで終わるのではなくて、変化が他のスロットにも影響を及ぼしてゆく。どんどんフレームの中で変換が起こっていって、最終的にはフレーム全体が再構築されてしまう。これがSOWで、SFの本質だということなんです。」

 ようやく本題に戻るが、最近、福井晴敏の代表作である「終戦のローレライ」と「亡国のイージス」を続けて読んだ。これが、ともに大きな「IF」を設定しているにもかかわらず、どうにも「SF的なセンス・オブ・ワンダー」を感じなかったのである。原因がどうもはっきりしなかったのだが、この瀬名秀明の(というより森下一仁のか)説を読んで、ようやく合点がいった。

 福井の2作は、それぞれ「終戦間際にドイツが開発した超兵器が日本へ届けられていたとしたら」「テロリストがイージス艦を乗っ取って東京湾に篭城したら」という大きな嘘をつく。そこまでにいたる段取りのリアリティはものすごく、非常に読ませる。ところが、その後物語がクライマックスに向かって行く後半にはなるとなぜか違和感があるのだ。つまり、とんでもない大事件がおきたはずなのに、前者では「歴史には何の変化もなく、生き残った主人公たちは市井の人として子供を生み育て死んでいく。この物語の後に来るのは今の日本の姿そのもの」なのであり、後者においても「イージス艦の事件は、世間には一切知られることはなく、日本には何の変化もない」のである。この物語の閉じ方にがっくりくるのである。
 これは、まさに「SF」ではないがためだ。文字通り「一つのスロットの変化」が、「フレーム全体の再構築」に繋がっていないのである。
 もっと具体的に言うなら、たとえば「ローレライ」の物語の果てには、思いもがけない新しい世界観の提示やこの現実が実は現実ではないのでは、という疑問とかが生まれてきてほしいのである。たとえば、眉村卓の「燃える傾斜」のように。人ではなく「人類」を、世間ではなく「宇宙」を描くのがSFであるとするならば、福井の興味はSFに向いていないのだろう。飛躍するようだが、現代の若手作家に共通する現実肯定的な姿勢が気になった。
 だからといって、この2作が駄作だというつもりはないが、それぞれ前半の緊迫感がすばらしいだけに、後半の竜頭蛇尾的な予定調和がもったいなく思えるのだ。

 ところで、前述の講演の中で、瀬名秀明は「これはSFではない」という言い方を5年間封印しよう、という提案をしている。どうしても言う必要があるときは「SFとして読むとおもしろくない」というふうに言うべきであると。前者のような言い方は、非SF人がきくと非常にきつく感じられ、コミュニケーションを否定されたように受け取る。SF人のこういう言い方がSFの広がりを拒絶しているとのことである。
 確かに、もっともである。僕は「これはSFではない」をやたら連発するタイプだったので、今後は気をつけようと思う。

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2004年5月 9日 (日)

「新訳」の意味があった~『三惑星連合』

「レンズマン」シリーズの最終巻である。実は、この後にも「渦動破壊者」というインサイドストーリーがあるが、これは後年シリーズに編入されたものであり、本来のシリーズとはいえない。(ところで、この「渦動破壊者」は、そもそも小西宏ではなく小隅黎が訳している。にもかかわらず、新訳をすることになっているのが不思議だ)

 実は、最近になって旧訳の「三惑星連合軍」も読んでみていた。訳の問題というより、流れているセンスが異様に古めかしく、確かに違和感はぬぐえない。
 考えてみると、このエピソードは、日本で言うなら昭和9年に元々は書かれていた、というのだから古く感じるのもあたりまえ。それより、昭和初期にアメリカではこんな本格的スペースオペラが書かれていた、ということのほうにこそ驚愕する。
 それはともかく、時期的には最終形である「ファーストレンズマン」と本来は一番古い「三惑星連合」とでは、スミスの文章そのものもずいぶんと変わっていたに違いなく、今回の新訳で訳者が苦労したというのも頷ける。結果は、というと、これはやってよかったと言えるのではないだろうか。「翻訳が『超訳』ではいけない」という訳者の主張があとがきに書かれていたが、今回の訳はなんとかぎりぎりの線で踏みとどまり、現代に出し直す意義をもたらしたと言っていいように思う。旧訳版と比べても、用語が近代的に統一されたこともあいまって、古さを感じさせない出来上がりと言ってよい。

 ところで、解説でも書かれていることだが、同じ本も読む時期によってずいぶん異なった印象があるのは確かである。ここで問題になっているのは前半の「1942年」と題されたエピソード。これは、第二次大戦中にキニスン家の祖先が、軍需工場で不正と戦う、という話。確かに、アリシア人も出てこなければそもそもSFですらない。僕の場合は、解説者が言うほどには子供の時に読んだ時に違和感は感じなかった。ただ、意味はよくわかっていなかった面はあると思う。そして、今大人になって読んでみると、確かに、会社という組織での軋轢というテーマが、ずっとよく理解できた。

 最近、似た経験をもうひとつした。それは「帰ってきたウルトラマン」である。こどものころに、MATチームの弱さばかりが気になってしまい、全然おもしろくなかった。ところが、最近見返してみると、実はMATとは、歴代ウルトラシリーズの中で群を抜いた「官僚組織の中の防衛隊」であることに気づかされる。何かというと、上部構造の司令官が登場し「この作戦に失敗したらMATは解散だ」とか言い渡される。加藤隊長は、隊長といいながら実は中間管理職なのである。その悩みとか苦しみとかが、こどもの時には全然ぴんと来ていなかったが、今観るとそれなりに感じるところがあり、何かというと内輪もめを繰り返すMATの隊員達にも科特隊やウルトラ警備隊にはない人間くささを感じる。だからといって、作品の評価がすごく高まるというわけではないが、何か得るものはあった。

 レンズマンに話を戻すと、解説者によると、エッドア人の組織こそ、スミスが心から憎んだ官僚組織の非効率そのものである、とのこと。部下は自分のミスを隠匿し、トップは責任をとろうとしない。それがミスの限りない再生産を生む。こういう組織は旧日本軍だけかと思っていたか、実は同じ問題はいかなる組織にも多かれ少なかれ含まれているのかもしれない。
 大人になって読むレンズマンからは、子供の時にはわからなかった、「大人の世界」を感じさせてくれた。それが結論かもしれない。
(おそらく、新訳版の『渦動破壊者』は読みませんので、レンズマンについての評はこれが最後です。)

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2004年3月 2日 (火)

宇宙をもう一度「未来の夢」に!~『国産ロケットはなぜ墜ちるのか』(松浦晋也)

 宇宙開発というのはまさに「過去になってしまった未来」だ、との思いを新たにした一冊。

 著者は、本書中で宇宙開発の47年間の歴史を3期に分けて総括している。1957年(スプートニク)から69年(アポロ月着陸)までの12年間の「怒涛の勢いの時代」、その後81年のスペースシャトル初飛行に至る着実な進歩の12年間、そして現在まで続く「停滞」の23年間である。
 正直言って「停滞」の時期が23年間も続いていた、という事実にまずは驚いた。そして、子供のころにはアポロに心踊らされ、「将来の夢は宇宙旅行」と公言していたはずの自分ですら、この間は、すっかり現実の宇宙開発に対して興味と関心を失っていたことに気づかされたのである。
 最近になって続いたH2-Aロケットの失敗についても、「日本の技術はどうなっているんだ」と「低レベルのマスコミ」と同程度の印象批評を心の中でしているくらいだった。「科学少年」でありSF好きだったはずの自分はどこへ行っていたのだろう、と思った次第。

 本書で一番強調されているのは、ロケットのような根本に技術の問題が横たわる案件については、当事者にも論評する側にも理工系の最低限の知識が不可欠である、という点である。それだけでなく、たとえば地球の脱出速度とか静止衛星軌道とかの概念をできるだけ平易に説明してみせ、「理工系の知識といっても高校の理科程度で十分である」ことをちゃんと立証している。
 そして、技術者的な視点で見ていくことで、たとえば日本の火星探査機「のぞみ」の失敗を、「○○億円が宇宙の塵に」というセンセーショナルな見出しで片付けてしまうマスコミがいかに浅薄であるかを浮き彫りにしていくのである。
 著者は「のぞみ」は、そもそもが打ち上げ時点からいわば「失敗」が内包されていたと考える。「のぞみ」の失敗の本質は、政治と行政に踊らされ、予算も時間もぎりぎりまで削らざるを得なかった状況にこそ大きな問題があり、逆に、現場的にはこの困難なミッションを通じて大量の経験を積むことができたという意味でむしろ大きな「成果」があった、と考える。だからこそ、この経験の蓄積が希薄にならないうちに、次の火星探査を実施するべきであり、それが「○○億円を宇宙の塵に」しないための本当の方策であると力説する。

 「のぞみ」の話は本書中で一番おもしろく読めたパートである。「ないなづくし」の中で多くのトラブルをかかえながらも、「神業的な軌道計算」によって火星軌道に「のぞみ」を投入することに成功した技術者たちの奮闘ぶりには、一種感動すら覚えた(アポロ13号の生還の話にも匹敵すると思えた)。それだけに、著者の言う今こそ宇宙開発を新しい考え(協調ではなく競争)で推進すべきである、との主張には共感するが、何しろ自分ですらこの間宇宙開発にはずっと関心を失っていたくらいである。今の若い層にとっては、宇宙とは現実味のない過去の話題でしかないのでは、と思わざるを得ない。
 その逆風の中で、特に日本において、今後宇宙開発が復活し、もう一度「未来」になっていくのには大きな困難がある。ひとつだけ芽があるとするならば、ここへ来て若い世代の作家・クリエーターが「宇宙もの」に果敢に挑戦していることだろう。何度が論評した『プラネテス』がその頂点であるが、小説の世界でも『第六大陸』(小川一水)のような「日本の宇宙開発」をテーマにしたストレートな作品が生まれてきている。こうした動きから、宇宙の未来がまた始まってくれれば、と願うことしきりである。

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2003年8月 6日 (水)

「ファーストレンズマン」がシリーズ一か?

 思うところあって、新訳(小隅黎訳)のレンズマンシリーズを読んでいる。前期4冊が終わって、いま「ファーストレンズマン」を読んでいるが、昔とだいぶ印象が違う。翻訳のせいだけではなく、もっと本質的なところで再評価してしまった次第だ。

 ご存じの人も多いと思うが「レンズマン」のメインの話というのは、「銀河パトロール隊」「グレーレンズマン」「第二段階レンズマン」「レンズの子ら(子供たち)」の4巻である。「ファースト」は、後年シリーズに組み入れられた「3惑星連合軍」と先の4冊の間を埋めるためにかかれたブリッジ的作品である。子どもの頃に読んでいたときは、「何か蛇足みたいな話だなあ」と思っていたわけだが、今再評価することになった最大の理由は、むしろ「最後に書かれた」という状況によると思われる。
 シリーズものにありがちなことだが、レンズマンもけっこう行き当たりばったりに書かれていて、巻を追う毎に設定面も含めて熟成されてきたという感が強い。その意味では実質的な最終巻である「子ら」がいちばん完成度が高くていいはずなのだが、何しろ驚異的なご都合主義というか予定調和的なラストに向かって話が組み立てられているので、スペオペとして一番大事なはずの「ヒーロー性」とか「アクションの楽しさ」とかが決定的に欠けてしまっている。それに代わる魅力はもちろんあるのだが、キニスンの活躍に心をときめかせていた身にとっては、不満が大いに残る巻なのである。

 その意味で、「ファースト」は、テーマ的に書きたいことはすでに書いてしまっている、という気楽さからか、サムズやキニスン、またその子供たちの活躍ぶりが縦横無尽に描かれており、一方でレンズマン世界の設定面での魅力も過不足なく処理されていて、実に楽しく読めるのだ。
 特筆すべきなのは、実質的なヒロインともいえるサムズの娘・ジルの存在だ。本人が作中でいみじくも語っているようにまさに「将来レンズをもらう歴史上唯一の女性とは私は違う」のである。その女性とは、もちろん(キムボール)キニスンの妻であり「レッド」レンズマンであるクラリッサを指しているわけであるが、クリスが母性を象徴するような(ある意味では)優等生的なつまらないキャラなのに対して、ジルはまさに正反対。男勝りで行動的、一方で父を救うためには女の魅力を駆使して、敵の懐にも大胆に潜入していく。先にクリスを描いていたからこそありえた現代的な魅力のあるヒロインと言えるだろう。
 というよりも、そもそE.E.スミスの作品で、魅力的な女性キャラといえるほとんど唯一の存在ではないか、と思えた。
 (スミスにとっての本当の最後の作品である、『スカイラーク対デュケーヌ』には、最後にちょっと出るだけだが、似たような行動的な女性が登場しているのも特徴的だ)

 SFやスペオペの変化、現代性の獲得の萌芽のようなものがこの「ファースト」には伺えた、という意味で、興味深いことである。

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